2019年03月05日

遺される物語(1)

こちらでは4年ぶりとなってしまいました。
大変ご無沙汰しております、柴崎です。
この4年間、何度か生存確認をしてくださいました皆様、ありがとうございました。
原稿は書けていませんが、生きてはいます。

この4年間、どうして表に姿を現していなかったかというと、たいした理由があったわけではありません。
ごく単純に、ここに記すような楽しい出来事がなかったという、ただそれだけでした。
あれですよ、これでもう大丈夫と思った病気が、実のところ完治しなかったとか。
(いや、子宮が治ったんでまともな生活は送れるようになったんですけど……だから先生、私最初から痛いのは卵巣だって言ってたじゃないですかー)
ちょっと「もう勘弁してくれ……みんな一緒に逝くな」と言わずにはいられないくらい、立て続けに身内が亡くなるとか。
そんなことをつぶさにここに書いて誰が楽しい、という思いと。
なにより皆さんに「できたよ」とお出しする原稿ができてないことが心苦しくて、まったく表に出てこれずにいました。

ただ最近、琴線にひっかかったことがあって。
それを文章にする場所は、やはりここだろうと思いました。
文章のリハビリのつもりでつづる一人語りなので、もし興味がおありの方はお付き合いいただければ幸いです。

年始に、某大ヒット映画を見ました(ネタバレのため、敢えてここでは作品名は出しません)
ええ、泣きました。
描かれている人たちが、大好きになりました。
物語の演出と構成に唸りました。ちくしょーそう来るのかよ、と帰ってきてから声に出していうくらい唸った。
史実を元にした映画で、私は年齢的にそのリアルタイムにほとんど接することができなかったので、帰宅してから現実はどうだったか色々調べました。
他の人が書かれた感想、その賛否両論を色々読みました。
その結果、あることが気になって仕方なくなった。

この物語が史実と違う点があることは、当然だ。
ドキュメンタリーじゃなくて、フィクション。しかも制作側がエンターテインメントにしたかったのだと明言しているのだから。
だからこそ、考えた。

フィクションである以上、そこには制作者の意図がある。

この映画、何が言いたい。
制作陣は、この物語を――はっきり言うと主人公たちを、視聴者にどう受け取めてほしいと思ってる。

そこが気になって、もう一度見にいったんです。
そこで敢えて、視点を主人公からそらして、ひたすら周りの登場人物たちを見ました。
だって。


制作者たち本人、登場人物として映画の中にいるんだもん。


その結果。
非常に斜め上方向だと自分でも思う感想を抱いて、号泣する羽目になりました。


主人公、なんで死んだ!


……いや、これ以上ないほど身も蓋もない感想だって言うのは判っているんですよ。
そこで死んだの史実だし。本人にとっても理不尽だったろうし。
本人の無念さも辛さ苦しさも判っている。
本人を責めるべくことではない。
そんなこと判っちゃいる。
それでも言いたい。


なんで、この人たちをおいて逝った。
こんな思いを残されて、遺された人たちは、この後をどう生きていけばいい。


やりきれない。と叫んだところで気づきました。
がっくりうなだれました。
反省もしました。

まさにそういう物語を途中で放り投げているお前がどの口で言う、と。

というわけで、追記ではネタバレ込みでこの映画のお話をさせてもらえればと思います。
かなり偏った視点だという自覚はありますので、お含み置きの上読んでいただけるとありがたいです。
それでもって、少し原稿の話もさせていただければと思います。











というわけで、ここからネタバレです。
もうかなりの方が、何の映画の話をしているかお察しのことと思います。

そうです『ボヘミアン・ラプソディ』です。

とりあえず私洋楽にとんと縁の無い人生を送ってきていたので、この映画についてもクイーンについても、何の予備知識も思い入れもないまま見にいきました。
(とはいえ町田党スケオタなので『Don't Stop Me Now』が嫌いなはずがない)
で、冒頭のスタッフロールを見て、内心で「え」と呟いた。

音楽総指揮、ブライアン・メイとロジャー・テイラー?
え? 本人?

思えばこれが沼の始まりでした。
まず最初に言いますが、私、この映画の制作にこの二人が入ってなかったら、間違いなくこの映画にここまではまることはなかったと思います。
本人だったから、とにもかくにも考えることになった。

ネット上での賛否両論の感想、否の意見で一番大きかったのは勿論、史実と違うということ。
うん、そうでしょう。クイーンの来歴はその後ある程度は勉強しましたが、確かに違う点はかなりある。
(史実通りにやっていたら、とても尺に収まらない。特にライブエイドのくだりなんか、史実通りに描いていたらあまりにも状況が複雑すぎて、この映画の『主題』からそれてしまう)
でもそれらの批判に対して、ある方が書いていた意見が、もの凄く腑に落ちた。

曰く、他ならぬブライアンとロジャーが8年も悩んで作った作品だ。
その過程で配慮も熟慮も沢山あっただろう。
そうである以上、この映画はどうあっても、この形以外のものにはならない。と。

うん、そうだよな。本当にその通りだ。
二人は脚本を書いたわけではないけれど、最初から企画に入っていた。
第三者ではなく、当事者である二人が配慮して描かなかったことは、描けるはずがない。
(ソースとして先にこのインタビューを貼っておきます。ttps://www.youtube.com/watch?v=RVel67xR3Zg)


ブライアンがインタビューで「自分たちが加わらないと、フレディのレガシーが残せない」と言っているのだけれども、さもありなん。
これ裏を返せば「自分たちが加わらず第三者たちだけで作られたら、フレディがどんな描き方をされるか判らん」って言ってるようなものだなと。

人も出来事も、色々な角度・色々な視点から見ることができる。
物語を多角的な視点で描くのは非常に困難だし、見る方にも難解だ(そして尺が足りない)
だから「フレディ・マーキュリーの一生を描く」といっても、それはどう頑張っても、ある一方向・一側面から見たものになるのは必定だ。
そしてフレディ・マーキュリーという人は、悲しいかな最悪にスキャンダラスに描くことができてしまう。そういう見方ができてしまい、そういう描き方をしても嘘(もっとえげつなく言うと名誉毀損)にはならない作り方ができてしまう。
ブライアンとロジャーはまずそれを阻止したかったんだろう。
そしてこの映画の「フレディ・マーキュリーをどんな視点から描くか」ということの決定権を握りたかったのだろう。

ええ、そう。
そも『ボヘミアン・ラプソディ』というこの映画自体、フレディ・マーキュリーをある一方向から見た物語に過ぎない。
フレディはこんな人じゃない、という非難の意見も聞いたし、それはそれで間違いではないと思う。
けれどもその視点を選んだのは誰か。
フレディをああ描きたかったのは誰か。
それはブライアンとロジャー以外の誰でもない。私はそう考える。

つまり『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディ・マーキュリーとは。
ブライアン・メイとロジャー・テイラーが選んだフレディ・マーキュリー像。
二人が「観客にこういう男だったと受け止めてもらいたかったフレディ」なんだと思う。

勿論全部が二人の思い通りになったとは思えません。この映画がどれだけ揉めに揉めたかは周知の通り。
二人が諦めたところ妥協したところは一杯あるでしょう。尺とかお金とか演出効果だとか展開の都合だとかをすりあわせてすりあわせて、ようやく折り合った着地点があの物語なのだと思う。

それは完全に実像とは一致しないかもしれない(そして二人の思うフレディとも、多分違う)
けれども第三者ではなく、他ならぬ親友であり当事者であるブライアンとロジャーが選んだ描き方に文句つけられるのって話をしたら。
つけられないよねえ、という話になると思いますのよ。

それにしても、不思議な映画です。
本編は一貫して、フレディに視点が置かれている。
世界も出来事も他の登場人物も、観客はフレディの目を通して見ている。
ブライアンもロジャーも、フレディの目に映る二人だ。
でもこのフレディを見ている外側の『目』は、実はブライアンとロジャー(ともしかしたらジョン)なんだよな。
本当に不思議な感じがします。

そして、です。
二人には、残したい「フレディのレガシー」があるのよね。
つまりこの映画自体に、ブライアンとロジャーの意図があるのよね。

ブライアンとロジャーが残したかった「フレディ・マーキュリー像」って、なんだろう。
フレディをどう描きたかったんだろう。

その解答は、主演のラミ・マレックのオスカースピーチのこの一文に尽きる。

>アイデンティティに悩み、自分の声を見つけようとしている全ての人へ。聞いてください。僕たちは、悪びれることなく彼自身として人生を生きた、移民で、ゲイの男性についての映画を作りました。僕が今夜皆さんと一緒に、彼とその物語を祝福しているという事実は、こうした物語を僕たちが切望しているということの証しです。

本当にいいスピーチだよねえ(しみじみ)

私はこの映画の主眼、そしてブライアンとロジャーが目指したところ。
それは「フレディの肯定」と考えています。

上映が終わった劇場で「フレディかっこいい……」と呟きながら帰っていくお嬢さんを何人も見ました。
私の周辺の若い子の感想は、大体この一言に集約されました。
ゆえに思います。


ブライアンとロジャーは、要は「悪びれることなく彼自身として人生を生きた、移民で、ゲイの男性」を、沢山の人に「かっこいい!」と言わせたかったんだよ!


1980年代を生きてた人ならおわかりでしょう。
あの当時、同性愛者とエイズに対してどれほどの偏見と差別があったのか。
その負のイメージが、「音楽家としてのフレディ」の業績を塗りつぶす。そうして忘れられていく。
そこからの一発逆転こそが、この映画の主眼であると私は考えています。
そしてその大勝負に大勝利を収めたことを、心の底から寿ぎたいと思います。
曲の『ボヘミアン・ラプソディ』と同じく「大衆法廷」だよなあ。映画も曲と同じ道程を辿る辺りが、面白くて仕方ない。


ですが。


私、この映画にある一点、引っかかるところがあるんです。


この映画、もの凄く寂しくないか。
根本的なところが、どうしようもなく寂しくないか。


その寂しさの正体に気づいた時に、呻いてしまった。
それは私が悪い。


私はそもそもこのサイトで、そういう話をはからずも書いてしまった人だった。
だから私は、泣くしかないんだ。


ここまでで話の半分です。これだけでも数日かかってしまった辺り、やはり文章の腕、錆び付いてます。
あまりに長くなりすぎてしまったので、一回切ります。
近日中に後半を書いて上げますので、もしこのうざったい語りに興味を持たれた方は、お付き合いいただければ幸いです。
posted by Sae Shibazaki at 21:48| Comment(0) | 映画感想
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