というわけで、続きです。
多分今回も長くなりますが、前回の話が気になった方がいたら、お付き合いいただければ幸いです。
(とりあえずここからは断らない限りは史実ではなく、フィクションとしての映画の考察とお考えください)
さて、前回の最後に記しました「ひっかかること」は、この映画に対する根本的な疑問です。
本作は「フレディ・マーキュリーの栄光と孤独」を描いている、と紹介されることが多いと思います。
うん、確かにそう。劇中のフレディは、ストレートに孤独を訴えている。
それは観客にも伝わってくる。誰もが「フレディの心には孤独感があった」と思う。
でも、フレディの家族が彼を愛していない時間なんて、あった?
メアリーの心はフレディから離れていった?
三人の心はフレディから離れていった?
それは「ノー」じゃない?
家族もメアリーも三人も、全編通じてフレディのこと愛してたよね。私はそう思うよ。
(フレディは四人の気持ちが離れていってしまったように見えたのかもしれないけれども、その理由は後述)
でも、フレディは孤独なんだよね。
つまりは「フレディの孤独」って「誰からも愛されていない」と感じた、ということじゃないんだよな。
じゃあその孤独って、何だったんだろう。
フレディは何を孤独と感じていたんだろう。
本作のタイトルは『ボヘミアン・ラプソディ』です。
ご本尊のブライアンをして「別格」と言わしめた、クイーンの代表曲。
しかしそのブライが「時々フレディは預言者かと思う時があった」と言うのはまったくだ。
『漂泊者の狂詩曲』
故郷を追われ、辿り着いた寄る辺なき異境。そこで差別と迫害を受け。
愛と安らぎを――安住の地を求めたさまよい人が、あらん限りの声で叫んだ歌。
なるほどこの映画のタイトルは『Bohemian Rhapsody』だ。それ以外にない。
(そしてその結論こそが『We Are The Champions』なんだよなと。初見時に「なんて問答無用……」と思った。何を語るより演じるより、あの一曲はあまりに問答無用だ)
フレディの孤独とは「漂泊者の孤独」だ。
異分子として迫害され、その場に留まることすら許されずさまようしかなかったマイノリティの孤独。
しかし、その孤独は癒されたんだろうか。埋められたんだろうか。
この物語の起承転結において、「結」に向かう転機となるのは「雨のミュンヘン」です。
メアリーがフレディに告げたあの言葉が、決定的な転機。
「あなたの家に帰れ」
「私もメンバーもあなたを愛している。十分でしょ」
そうだ。確かにフレディを真に思っているのは、ミュンヘンの取り巻きたちではなくメアリーや三人だ。
けれども私はこの「十分」に、もの凄く引っかかりを覚えました。
フレディの孤独を癒すには、本当にそれで「十分」だったのだろうか?
フレディの孤独は、メアリーとクイーンに戻ることで、本当に癒されたんだろうか?
劇中で再三再四繰り返されるフレーズ「バンドは家族だ」
フレディも言うし、ブライアンも言う。
それを各人が発する時、誰一人その気持ちに偽りはないと思うのよ。
けれども問題なのは、その「家族」というものを、どう解釈すればいいのかってことにある。
そもそも「家族」って、どういうものなんだろう?
お互いをどう思い、どうあるべきものなんだろう?
これに対して私は「判らない」「答えはない」「答えは一つじゃない」と言わざるを得ない。
「家族の定義」「家族観」って、実のところ千差万別で、一つの家族の中でさえ食い違っているものだから。
(個人的な愚痴を漏らすと、私の両親はこれが決定的に食い違っていたことが、騒動と不和の原因になった。父は母の家族観が自分と違うことに気づいていなかったし、母は父の家族観を到底容認できなかった)
故に、フレディの発する「バンドは家族」と、ブライアンの発する「バンドは家族」が、実際どんな思いであったのか、それがイコールであったのか、確かめる術がない。
フレディが三人に求めていた家族愛と、三人がフレディに抱いていた家族愛がイコールだったのかもまた、判らないところなんだよな。(しかもブライアン、ロジャー、ジョンの三人がフレディに対して抱いていた感情もそれぞれ個々に違うだろうから、三人なんてくくれるもんじゃないだろうし)
さらに問題なのは、この「家族」という言葉は、「フレディの孤独を埋めるもの」だけではなく「フレディを孤独を突きつけるもの」だったりする。
あれです。
「お前たちには家族がいる。俺にはいない」ですよ。
そうなのよ、三人にはバンドという疑似家族だけではなく、妻子というモノホンの家族がいる。
(そして後にメアリーにも、赤ちゃんという絶対的な存在ができてしまう)
この発言、私は表と裏の二方向から解釈できると思います。
表は勿論「ゲイである俺には、お前たちと違って妻も子も持てない」ですよね。
「お前たちには孤独に寄り添ってくれる妻子がいるけれども、俺にはいない」です。
これ言われたら、三人は何も返す言葉ないですよ。
(これ「LGBTを取り扱う映画の表現として悪手だという批判があるけれど、実際にフレディが三人に言っちゃった言葉だったしなぁ」というご意見を聞きまして、「あぁ……」と呻きましたことよ。言っちゃったかぁ)
まあ、妻子がいれば孤独が癒されるのかという点については、そっと目をそらしてご本尊のブライアンとロジャーに「どう思う?」と聞きたいところではあるんですが(鬼)
私はこの発言にはもう一つ、裏の意味があると思う。
お前たちはお前らの妻子のもので、俺のものじゃない。
それを突きつけてくるのが、この映画の「起承転結」の「転」の始まりのシーン。
マーキュリー邸引っ越しのシーン。あそこがこの発言の伏線だと私は解しています。
そしてそこがフレディの孤独を描く起点のシーンであると。
ええ。
ロジャーはフレディの誘いを「家族が待っている」と言って断るのよね。
あれ、本当に決定的なシーンだと思います。
ロジャー、明白にフレディより妻子を優先しちゃった。
無論、これロジャーを責めるところじゃないですよ。当たり前のことなんです。
そしてその後、メアリーも別の男性の元に行ってしまう。でもそれだって当たり前のことだ。
だって、ロジャー(とブライアンとジョン)も、親友という立場になったメアリーも、フレディ一人いれば生きていけるというわけにはいかないもの。
人は一人では生きていけない。
誰かに愛してほしいし、誰かを愛したい。
でも、愛する誰かただ一人がいればそれでいい。すべて満たされる、すべての寂しさが埋められる――そんなことは絶対あり得ない。
だってさ、人の人生は「誰かを愛すること」だけでは、できてない。
他にやること、やりたいこと、やらなければならないことがいっぱいある。
そうである以上、人の一生は「愛する誰か」一人いればいい、ということにはならない。
当のフレディが「愛する人」(のジム・ハットンを手に入れるのは最後でしたが)の他に「親友」も「共に音楽を紡ぐ相棒たち」も必要だったように。
ロジャーもブライアンもジョンも、メアリーも、フレディを愛していた。でもそれが彼らの人生のすべてではない。
それは当たり前のことだ。
当たり前のことなんだけど。
だからこそ、この結論に辿り着いてしまう。
他人のすべてが、自分一人のものになることは、決してない。
三人とメアリーは、フレディを愛しているけれども、フレディのものじゃないんだ。
ぶっちゃけて言えば、それぞれの妻子のものでもない。
人は、自分だけのものだ。
どれほど愛し、愛されても、支えたい支え合いたいと願っても。
他人は自分のものではないし、自分を誰かに委ねることもできはしない。
だからフレディがメアリーに望んだ「ほぼすべて」は、どだい叶うことじゃなかった。
逆に言えば、フレディもまた彼自身のものでしかない。
誰かがどれほどフレディを愛したとて、その人生からメアリーも三人も排除できっこない。
(結局ポールの失敗って、私はこれに尽きるんだと思う。ポールはフレディのすべてを自分一人のものにしようとした、それができると思ったんだと、私は思う。それを実現しようとしたら、一番の邪魔者はそりゃあクイーンのメンバー三人だ)
人が人に与えられる「愛」には限界がある。
限界がある以上、その愛はすべての孤独や苦悩を癒す特効薬にはなり得ない。
だから彼の孤独は、苦悩は、彼自身が向き合うしかなかったんだ。
沢山の愛に慰めを得ても、励みや支えになったとしても、それは痛みや悲しみを解決しはしない。
自分の痛みとは、悲しみとは、孤独とは、自分一人で向き合って戦うしかないんだ。
人は、独りだ。
誰かと人生を共に行くことはできる。支え合うことも、いたわり合うこともできる。
けれども完全に一つになることは叶わない。誰かのすべてを手に入れることも、自分のすべてを受け入れてもらうことも叶わない。
自分も愛する人も、どこまでも「他人」――別の個として、弧であり続けるしかない。
それを踏まえた上で、人生の一時を寄り添うことしか叶わない。
それは当たり前のことなのだけれども、もの凄く寂しいことではないだろうか。
私はこの物語で、それを突きつけられた。
私がこの物語を「寂しい」と感じるのは、そういうことなんです。
そして話は、冒頭のメアリーの発言に戻ります。
「私もメンバーもあなたを愛している。十分でしょ」
これは
「私やメンバーたちが、あなたを愛していることに気づけ」ではない。
「私やメンバーたちがあなたに示せる愛が、人の限界値だ。それで妥協しろ」だ。
メアリー・オースティン、容赦なし
いや、ホント、身も蓋もないんですけど。
私にゃ「十分」がそう聞こえるんだよ。私やメンバーの愛で妥協しろ、十分だということにしろって。
いや、ちょっと、待て。
この物語『Somebody To Love』で始まるじゃないですか。あの曲私そりゃあもう大好きなんですけど。
でも、なんであの曲から始まるのか。それってもろにあの曲が、この映画の主題だからですよね。
「僕に愛する人を見つけてください、神様」だ。
誰かを愛したいし、誰かに愛されたい。それによって救われたい。
その思いを抱いた男の彷徨の物語、でした。
そしてもう一度あの曲がかかって、ついにフレディは最後の恋人ジム・ハットンに辿り着くわけなんですが。
でも、その愛がすべてを救ったか、その愛を得られればすべて解決か、というとそうじゃないわけで。
この映画の『愛』って、なんて厄介なんだろう……。
やはり予想以上に長くなってしまった本日記。今回だけでは終わらなかった。
まだ本題に辿り着いていません。
次回はこれを踏まえた上で、視点をそらす話をしたいと思います。
この物語におけるブライアン、ロジャー、ジョンについて。
そこを突きつめていくと、ブレイリーとロスマリンごめんよう……という話になりますので、もしここを読んでくださっている方がいたら、どうぞお時間がある時にでもお付き合いください。
2019年03月24日
遺される物語(2)
posted by Sae Shibazaki at 22:53| Comment(0)
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