2019年03月31日

遺される物語(3)

つらつら考えるに、多分今回でも終わらないんじゃないかと思われるこの日記。
一向に「遺される」人たちの話に辿り着かないんですけどどうしよう。
それでも今回は、前回予告してた部分の前半を分割して記したいと思います。
そしてそれは、映画の話じゃない。でもこの話を読んでいただくと、最終的で私が何でこの映画でかくも泣くことになったのか、なんでここで延々感想を書いているのか、判っていただけるのではないかと思います。

今回は、久しぶりに、『それでも朝日は昇る』とカイルワーンの話。








前回の感想では「フレディの孤独とは何だろう」「それは癒されたのだろうか」ということを考えました。
そして彼が求めていたものがもし愛だとしたら、残念ながら「愛はすべてを解決してはくれない」という結論に達しました。
でも実のところ、フレディが本当に必要としていたものは「愛」ではなくて、それによく似た別物ではないか。
そのことを考えるにつけ、どうしても思い出してしまうことがあります。

『それでも朝日は昇る』という小説は、最初のプロットを考え始めてから書き終わるまで、おそらく三年弱かかっているはずなんですが、その間ずっと悩んでいました。

私、カイルワーンの心を、どうやって救ったらいい、と。

連載をしていた当時の日記にも書いていますが、「柴崎はこの作品をどこに落とすのか」という感想を何度かいただきました。

歴史は、運命は変えられるのかどうなのか。

そしてあの物語はあの結末を迎えるわけです。
あれは「何言われても仕方ない」と思ったですし、批難されても一言も反論できないと思っていたですよ。
でも。
そろそろ時効かと思うので、白状します。

実はあの結末、私が落としどころを決めた、ああなることを選んだ、というわけではないんです。
そもそも作者の私にも選択肢などなかった。
あの話、あの結末以外の選択肢なんて、最初から最後までなかったんです。

だってあの物語は、「先祖に殺されなければ生まれてこれない」という運命を背負った女性の人生に、一筋でも光をもたらしたいと私が思ったことが、始まりだったんですもの。
「運命は絶対変わらない」という絶対前提の中で、ひとかけらでも救いをもたらすとしたら、何かできるだろう、と考えたことが起点だったんだもの。
だからあの結末こそが、あの物語のすべての前提だったんです。前提である以上、そこは絶対動かない。
(つまりアイラシェールにはモデルがいます。だからあの物語は実は、ある作品へのオマージュでありアンチテーゼだったりします)

そしてその答えが、カイルワーンでした。
過酷な運命を背負った主人公を、自分に何が起こってもどこまでも愛し抜く、運命の伴侶をもたらそう。
運命の枠組みが決して変わらない以上、できることは、もたらせるものは愛しかない。
その当時の私は、そう思ったんです。

そうやって話を構築し始めたはずだったのに、どうしてああなりましたかねえ(遠い目)
そのコンセプトだったのなら、カイルワーンを賢者にしなくてもよかったじゃん、最初から最後までアイラシェールの影に寄り添う立場の人間にしたってよかったじゃん、と今になってみれば思います。
これだからお前は鬼畜なんだ、と友人一同には言われるわけですが、それはともかくとして。
そうやって話を構築していく過程で、さすがに私も思いました。

お前はどうして、そこまでアイラシェールでなければならないのかと。

これ作中でもカティスがカイルに問いかけましたが、作者がまず思いました。
どうしてお前、そこまでアイラが好きなの? アイラでなきゃ駄目なの? と。
カイルワーンの存在意義は「アイラシェールに無謬の愛をもたらす」だったんですが、さすがにあそこまで行くと、作者の私ですら「どうして」と思う。当然読者だってそう思うだろう。
カイルワーンの心理に、理由付けが必要だと思いました。

結果。
カイルワーンの過去は、ああなりました……。

弁解がましいことを言いますが、あれは本当に作者の私にも青天の霹靂だったんです。
頭の中でカイルワーが、自分で喋った。
私が「虐待にしよう」と作為したんじゃない、考え出したんじゃない、浮かんでしまった。
その瞬間「ああ、そうなのか……」と思ってしまったんです。
納得したと同時に、予感しました。

この物語が佳境にさしかかった時、カイルワーンはきっと行き詰まる。

それを実際に描いたのが9章5節から6節、サンブレスト道中での遭難劇の下りであるわけですが。
カイルワーンの心の傷を規定したその時から、私は実際にその箇所を描くまで、心底悩みました。
私は、カイルワーンの心を、どうやって救ったらいいのだろう、と。

『それでも朝日は昇る』を書いてからずいぶんたちましたが、それよりさらに前。20年以上前のことです。
友人に、問いかけをされました。
どういう話の流れであったのかは思い出せませんが、その問いと情景だけは今でもはっきりと思い出せる。

「大切な人に『死にたい』と言われた時に、どう答えたらいい」と。
「もういい、もう疲れた、休みたい、だから死にたいんだと言われた時、何が言えるのかと」と。

私はこの時、返答できなかった。

周囲の人間が、どれほど当人を愛していたとしても。失いたくないと願ったとしても。
その愛も願いも、当人の問題を解決しない。重荷を軽くはしない。
それが判っていて、一体何を言えるのか。
そう思った。

そして悲しいかな、この何年か後に、現実でこれに直面して大切な人を亡くした人を、至近で見てしまった。
その現実を目の当たりにした後に、自作でこの状況に直面したんです。
だからこそ、心底悩み続けました。


疲れた、もういい。休みたい。
そう言って泣くカイルワーンに、何を言ったらいい。


私が出した唯一の答えが9章11節
カティスすまない、一緒に泣いてくれ。


「お前の気持ちは判る」と言って、一緒に泣いてくれ。
その言葉を発して許されるだけの背景を抱いている人間が、そう言って一緒に泣くしかない。
それ以外の答えが、昔も今も、どうしても出てこない。


だからカティスは、あんな生い立ちになったんです(鬼畜生悪魔)
最初カティスは、あんな性格してなかった。本当に陽気で気のいい、女好きの田舎の傭兵だったんですよ。
それがああなったのは、ひとえにこのせい。

「お前の気持ちは判る」というカティスの言葉に、カイルワーンが泣いて共感できるほどの背景を背負わせるしかなかった。

カティスは何のためにあの物語にいたのか。
それは勿論英雄物語という、物語の道具立てのためだったことは否定しません。
でも究極のところを言えば、カイルワーンのため。
カティスの生い立ちも傷も苦悩も、全部カイルワーンのため。
カイルワーンを救うため――彼の痛みに共感するため、カティスはあの物語にいたんです。

『それでも朝日は昇る』という物語において、痛み苦しむ心を救ったのは『愛』ではなく『共感』だったと、私は思います。
おかしいなあ、アイラシェールの人生に光明をもたらすために、カイルワーンの愛を用意したはずだったのに、当の二人の心を救ったのは『愛』じゃなかった。
いや、その人生に価値があるものだと信じることができたよすがは、お互いの愛なんだけど。
でもその痛み苦しむ心を救ったのは、それぞれの相棒の共感なんだよなと。
前回の感想で「愛する人一人がいれば、それで人生のすべてが解決するというわけにはいかない」と書いたのは、このことも念頭にあります。
カイルワーンは、アイラシェールさえ幸せならそれでいいと再三再四言いましたけど。
実際そうじゃなかったことは、本作をお読みくださった皆様なら判るはず(そして当人も判ってる)
今にして思う。カイルワーンとカティスは、本当に、ソウルメイトとしか言いようがない間柄だったなと。
アイラシェールだってそうだった。書き終わってみて感じたのは、アイラの人生もカイルだけではできてなかった。
そしてカイルを失ったカティスの空虚を救ったのも、ベリンダの共感だった。
実はマリーシアは、アイラシェールとカティスに共感するために作った(彼女は完全に、それを意図して最初から作った)キャラクターだった。
カイルワーンの失踪も、物語上絶対動かせない事柄だったので、このまま終わればカティスの人生が行き詰まる。そう思った結果、生まれたのがマリーシアです。

ただ勿論、本当に「共感」以外の術がなかったのか、今もって悩んでいます。
だって「共感」というカードには、大きな問題があるんだもの。
先に述べたように、この「共感」というカードを切るために、カティスもマリーシアもああいう生い立ちを背負うことになってしまった。
『それでも朝日は昇る』は創作なので、その背景を作ることができましたが、現実はそうはいかない。
そう、現実は。

というわけで、話はクイーンに戻るぞ!
次回こそ最後にできると思います。この長々した感想の本題。
私があの映画で視点をそらして、何を確かめたかったのか。
何がやりきれなくて泣くことになったのか。
そのキーワードが「共感」です。
posted by Sae Shibazaki at 17:15| Comment(0) | 映画感想
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