2019年04月28日

遺される物語(4)

というわけで、いよいよ最後。
相当斜め上方向になります本感想。
今までの内容も、映画とご本尊が大好きな人から怒られそうですが、多分今回が一番やばそう。
でも、記しておきたいことがある。

視点を動かした時に見えてくるもの。感じてしまうもの。
あの映画の根底に潜んでいるとてもやりきれないもの。
それに気づいた時に、問いかけたくなった。

あなたたち、もしかして。
主人公とは全く別の方向で、同じほどの強さで。
とっても辛かったんじゃ、ないのか。

少なくとも、見ていた私は、とても辛かった。




(先の日記でも記しましたが、今回書いていることも、フィクションである映画の上でのこととお考えの上お読みください、とまず最初に重々お断りします)

第1回で書いたように、私はクイーンのことも何も知らない状態で、この映画を見ました。
そして制作陣に、当事者二人(と後に存在を知るマイアミ)が加わっていることを知りました。
それはとても驚くことだった。

だって、自分で自分を描くことになるんだよ。

本作はフィクションであり、エンターテインメントである以上、脚色がある。
何度も書きますが、この映画は本当に尺が足りないので、多角的な視点で描くのは無理だ。
フレディがそうであったように、三人だって、ある一視点から見た三人でしかないわけですよ。
第1回で、それがフレディの目から見た三人だと書きましたが、「フレディの目からそういう風に見える自分たち」として、あの像で選択したのは当の二人。
だから私はフレディ以上に、三人の描き方が気になった。

ブライアン・メイとロジャー・テイラーは、「移民でゲイというマイノリティの孤独」と、それに翻弄されながらも自分を貫いて生きた男、親友フレディ・マーキュリーの生涯を描こうとした。
でも、その「漂泊者の孤独」に対し、作中のあなたたちはどうあったのか。
何を思い、彼に対して何を言い、どう行動したのか。
それをどう描くことを、選択したのか。
それが気になったため、2回目で私、ひたすらフレディではなく三人を見ました。

結論。
三人はフレディに何も言ってない。
フレディが悩んでいることに対し、本当に何も言っていない。
三人は作中で、フレディの個人としての孤独や苦悩に、全く立ち入っていない。
私はそう感じた。

見た方はおわかりと思いますが、この映画、クイーンを描きながらも、実のところびっくりするくらい三人の描写がない。
視点がフレディに固定されているせいもありますが、それにしたって三人のエピソードおよび人物描写がなさすぎだ。

その理由は判る気がします。
この映画にはまってから、クイーンの曲を沢山聴いて来歴を調べて思いましたもの。
駄目、これ全部なんか描けない。

この人たち、面白すぎてそのまま描いたら話がとっちらかるわ。

あの男気あふれるロジャー兄貴をそのまま描いたら「私もメンバーもあなたを愛している。十分でしょ」があまりにも自明の理で主題がボケボケになるし。
温厚だ地味だと言われつつ絶対に怒らせたらアカン裏ボスディーキーをそのまま描いたら、主題が明後日の方向に飛んでいくし。
何よりドクター・ブライアン・メイ。
あんた主役級にオモシロすぎてそのまま描いたらどんなに尺があっても足りないわ。
であると同時に、あなたの天才さを描くと、この映画が何を描きたいものなのか判らなくなる。
フレディとブライアン、それぞれの才能がどうぶつかったのか、という話もまたすげえ見てみたいものなんだけど、それを一つの映画でやったら、それはもう主題過多だ。
「フレディ・マーキュリーの栄光と孤独」を描こうとしたらもう、三人に割く尺とリソースがないんだよ。
だから切るしかなかった。
それくらい、クイーンは個々にばらしても四人まとめても面白すぎる。

でも、それにしたって、三人は何も言わん。
新作の記者会見が音楽の話ではなく、フレディのプライバシー糾弾に終始してしまった時も。
ブレイクフリーのMVがMTVで発禁になった時も。
そしてそのことをフレディが自虐しても、「俺のせいだよな」と吐露しても、何も言わん。返事もしない。責めもしなけりゃ、慰めも言わない。
(「アメリカでは変態行為は影でやるもんだ」を慰めと解釈すればいいのか……ブライが言うとジョークにならないよ……)
三人がフレディにぶつかる、つっかかるのは、音楽についてのことだけ。
(ブライアンはフレディの自虐から来る暴発を「時々どうしようもないほどクズになる」と表現しましたが、案じ呆れてもそれをどうにかしようとはしないんだよな。ジョンに至っては「酔ってても歌えればいい」まで言っちゃったし)
だから「映画の三人とフレディは、殺伐としている」という感想も見かけたし、「私もメンバーもあなたを愛している」というメアリー発言を、藪から棒と取る人もいそうだ。

これどういうことなのか。
話の展開の都合上、と解釈もできる。とにかく尺足りないし。
でも私には一つ、推測がある。一個人の私感として、聞いてほしい。


三人は言わなかったんじゃない。しなかったんじゃない。
言えなかったし、できなかったんだ。


あの離別のシーンで、ソロになることに対しては、特にロジャーが感情をあらわにし「空港から拾い上げてやった」と結構な暴言を吐き(この発言が展開の都合の気がして引っかかるんですが、それは後述)ブライアンとジョンが落胆した様子を見せていました。
フレディがクイーンのボーカルとして自分と共にある。そしてそれを止めて、自分一人の道を行こうとする。
それに対しては怒ったり、落胆したりと自らの気持ちを発露しようがある。
でも、フレディの悩み苦しみに対しては、かけられる言葉がない。

なぜならば。
彼らは決してフレディに「お前の気持ちは判る」と言ってはならない人たちだったから。


言っちゃ駄目なんだ、白人でネイティブブリティッシュで異性愛者の三人は。


こう思った瞬間、私、比喩表現ではなく泣いた。
これ四人の誰も悪くない。自分がどう生まれつくのか、選べる人間はこの世に一人もいない。
そして三人は、フレディに対して偏見も差別も侮蔑も、かけらも抱いてはいなかっただろう。
マジョリティとして、見下したことなんて一度もなかっただろう。
それでもマジョリティ側として生まれついてしまった彼らは、マイノリティのフレディの「気持ちが判る」とは決して言ってはいけない。
三人はフレディが悩んでいたことも、苦しんでいたことも知っていただろう。
判らないはずがない。あんな近くに、長い時間いて。
(ご本尊のブライとロジャーが、判っていたと言っているのを私も見た)
でも彼らはフレディの辛さは判っていても、同じ背景を持っていない以上「共感」の力を持たない。
「共感」の力を持たない者がそれを口にするのは、「無責任」と受け止められても仕方ないんだ。
上から目線だと、かえって見下されていると、受け止められかねないんだ。

でも「お前の気持ちは判る」以外に、悩んでいる人に何と言ってやればいいの。
それ私、二十年以上悩んでいるけど、判らない。

クイーンのメンバーは三人とも、フレディの親友で、家族で、その音楽において全力でぶつかり合える同志で伴侶だった。
でも、彼の個の苦しみに対しては、無力だったんだ。
なすすべがなかったんだ。

フレディが欲しかったのは「愛」じゃない。
「愛とよく似た別のもの」である「共感」だ。
この孤独を――それから生じる辛さを、誰かに判って欲しい。
この苦しみに誰か寄り添って欲しい。

僕と一緒に、泣いてほしい。

この痛みに、自分に、誰か「共感」してほしい。
フレディの求めていたのは、そういうことなんじゃないか。
だから「孤独の辛さは判る」と言ったポールに、フレディは傾いていってしまった。
(私はこの言葉自体は、偽りではないと思う。でもあの男が最悪なのは、そう言った口で最後に放った言葉が「パキ・ボーイ」だったってことだ。孤独を判っていながら、判ると言っておきながら、最後には平然と差別を口にして見下すその性根がクズだ)

「共感」というカードが使えない三人が、フレディにもたらせるものは「愛」が限界だった。
そしてメアリーは、その限界のある「愛」で「十分でしょ」と言ったんだ。
それ以上のものを求めても駄目だ、と。十分にしろ、と。

……これ、きつくないか。

であると同時に、私は思う。
この物語が語っているフレディは、突きつめて考えると本当に辛い。
だけど、同時にだ。
三人がフレディに何も言えなかった理由を、こう考えてしまうと。


見てるしかなかった三人だって、辛くないわけないだろう。


フレディと三人の間には、「差別」を根底にした断絶がある。
外側にいる多数の人間が投げつけてきた差別が、フレディと三人の間に断絶を作ってしまった。
それが「空港から拾い上げてやった」発言の後に続く「俺がいなければ今頃お前たちだって」の下りだ。
あのシーン、私は引っかかった。もう初回から引っかかった。

フレディが、三人をけなしているように、罵っているように、聞こえない。

だって「歯科医」や「天文物理学の博士」になる未来は、「ロックスター」と比べてどうなんだ。
そりゃあ金銭的には比べるべくもない。
だけどあの保守的で、階級社会の極みのようなイギリスにおいて、ロックスターになることは手放しのサクセスストーリーなのか。
もし三人が、階級社会の底辺からスターに成り上がったのならばそうだろう。
でも医者にドクターだよ? 超絶インテリだよ? 階級的にはこれもう中産階級のてっぺんじゃないか。
作中で来歴が描写されず、フレディが「何も思い浮かばない」と言ったのが、個人的にこの映画最大の謎である、ジョンだってそうだ。
ご本尊はロンドン大学チェルシー・カレッジの学科首席で名誉学位持ちだ。エンジニアとしてそりゃ将来を嘱望されてたろう。
イギリス階級社会から見れば、三人がフレディと出会って辿った道は、一側面成り上がりじゃなくてドロップアウトなんだ。
(で実際ご本尊のブライは、一時期父親から勘当されていたと聞きますし)

だから思う。
あの下り、フレディの逆説的な卑下じゃないのか。

もし出会わなければ――クイーンが存在していなかったら、三人が辿るはずだった人生。
それは「変態」だという謂われなき中傷に巻き込まれることもない、移民差別も偏見も侮蔑も身近に存在しない、そんな「中の上の社会」での退屈で平穏な人生だったはずなんだ。
だからフレディはジョンの「電子工学を学んだ」に対し「完璧だ」という呟きを返した。
クイーンのベーシストとしてのジョン以外、思い浮かばないくらいその存在は絶対だったのに、彼にもちゃんと別の人生があり得たことを自覚した。だから完璧だ、なんて自虐が出た。

フレディがあそこでなぜ三人を振り捨てたのか。
それはもちろん不和もある。メンバー間の揉め事に疲れたというのも嘘ではないだろう。
(例の「車の歌」の下りで考えると、フレディは揉め事の仲裁役だったのかなと。ご本尊たちの印税問題、詳細までは知らないけれども一番揉めたのはブライアンとロジャーだったと聞いているし)
でもあのシーンの一連の流れが「俺のせいだよな」という発言から始まり、あの結末に辿り着くことから考えると、この推測が出てくる。

フレディはこれ以上、自分の個の問題をクイーンに及ばせたくなかった。
『漂泊者の孤独』に、三人を巻き込みたくなかった。
そういう側面も、あるのではないか。今にも泣き出しそうな、あの悲痛なフレディを見て、私はそう思ってしまう。

ロジャーは「クイーンを殺したな」と言った。
ああそうだ、フレディはクイーンを殺したかったんだ。
翼の歌、翼を広げて自由になりたかったのはフレディじゃない。
フレディが自由にしたかったのは三人だ。
自分の問題から、三人を解き放ちたかったんだ。

そんな風にフレディが自分を「差別される者」として自虐し、罪悪感をもって三人を見上げてしまったら。
見上げられてしまった三人は、なすすべがない。
自分たちにはどうしようもないこと――自分たち三人とフレディの出自の違いという、変えられもしないことがフレディを苦しめているのだと判ってしまったら。

フレディを追うことが、できるだろうか。
離れる以外に、できることがあるだろうか。

私はあの訣別のシーンを、そう解釈しました。
(ただ一応ここで補足を記しますが、ご本尊のフレディだって実のところ十分インテリで、移民ではあるけれども中産階級の人間だという認識はあります。だからこそ「空港から拾い上げてやった」発言とこの下りは引っかかるんです。
フレディが空港で働いていたのは事実ですが、この映画がどうしてそこをクローズアップするのか。わざわざ訣別のシーンでロジャーが蒸し返すのか。
これ「移民格差」と「移民に対する差別」をクローズアップするための演出ではないかと、私は解しています。
この映画はフレディとクイーンの物語であり、1970〜80年代を描いているものですが、2018年に公開する以上、現代の世相を内心に宿す観客の心情に訴えかけるものでなくてはならない。
現代イギリスにおける移民の現状と、この空港の下りはシンクロする、と私は思います。
ラミのスピーチにあるように、やはりこの映画の背景にあるのは移民問題だと思うんです。
それをデフォルメしたのが空港での肉体労働かなと。
ロジャーの口の悪さは皆が知るところですが、あんなことを言うような男だろうか、と思うんですが……それはもう話の都合かなあと。
とすれば冒頭の過剰歯の下りといい、この映画はロジャーが割を食ってるよなあ、という思いに駆られるのですが、ご本人が文句を言わない以上はいいのかなあ……と)

そんな三人の下に、帰れとメアリーは言ったんだ。
三人はお前を愛していると、そこが『家』だと言ったんだ。
この推測の下に考えてしまうと、これ以降のフレディの心境は複雑極まりないことになる。
メンバーの愛に気づいたとか、そんな単純な話じゃなくなってしまう。

だってフレディのプライベートの問題、ポールの暴露をもって最悪の状況じゃん。
その問題を、フレディはクイーンに持って帰ってきてしまう。
三人を巻き込むことは、今までの比じゃない。
それでも帰りたいと――母船に戻りたい、とマイアミに告げたことは、相当な覚悟が必要なことじゃないのか。
詫びたかったのは過去だけじゃない。現在と未来に対してもだったと思う。
それでも共にありたい。残りわずかかもしれない時間を共にありたいのはお前たちなんだ、すまない。
残りの時間を俺にくれ、つきあってくれ、そういうことなんじゃないかと。

それと同時に、三人にだって覚悟が必要なはずだ。
何も言えず、何もできず、ただ見送ることしかできなかったフレディが、自分たちと共にあることが辛いと言って飛び出したフレディが戻りたいと願うのなら。
彼らだって、前と同じではいられない。
何ができるのか、何を為すべきか。当然考えることになると思う。

その証左が、和解の下りだと私は解釈しています。

私がこの映画で一番心に残った台詞は、和解のシーンにあります。
その一言を聞いた瞬間、内心で絶叫しました。


「許す。帰っても?」


ブライアン・メぇぇぇイっっっ!


マジで絶叫しました。
ここまでフレディが必死の覚悟で切り出しているのに、言うに事欠いてそれか! と。
お前本当にどうでもいいんだな、と心底思いました。

ですが、実はこの一言が、全部を言い表していると思った。
視点を動かそう、三人の立場になってフレディのことを考えようと思ったのは、ブライアンのこの一言のせい。この一言が、すべての起点でした。

フレディがソロになったこと、三人に暴言を吐いたこと。
それを「謝ること」それに対して「許しを請うこと」
それ自体は、ブライアンにとってはどうでもいいことなんだ。
許すか許さないか、ということを論点にするなら、即答で「許す」なんですよ。
だからフレディが「謝るために自分たちを呼んだ」のなら、返答は「帰っても?」になる。
それはどうでもいいことだから、これ以上フレディの謝罪を聞くのは時間の無駄なんだ。
(だから私はマイアミの「まだ怒っている」は、違う気がするんだ。多分三人は怒っていない。三人がこだわっていることがあるとしたら、怒るとか感情の問題じゃない。)

ですが、フレディと自分たちが再びクイーンとして運命を共にするということは。
全くの別の問題だ。

フレディがそれを望むのであれば、彼らは覚悟を固めなければならない。
それがフレディとマイアミを外した、三人での話し合いと私は解釈しています。
あそこで三人が何を話し合ったのか、誰が誰にどんなことを言ったのかは描写されません。
(それを描く尺もなかったしね。あそこ実際の時間としては、秒よ? あの描き方なら必要時間は秒で済む)
ただ私は、反省会もしくはジョンによる二人への説教と妄想しています。

どうしてそう思うかというと、三人がフレディに出した条件二つのせい。
二つ目の「取り巻きたちを排除しろ」は、まあ当然。
一つ目の「誰が書いた曲でもクレジットは四人の共同名義にする。誰の曲がシングルやアルバムに採用されても文句言わない」これがミソですよね。
これが史実でもあること(そして現実では、もっと後でのこと)とは聞いていますが、なぜこの話し合いのシーンで出てくるのか。
フレディが戻ってくるための条件として提示されるのか。

これ、三人からの婉曲的な謝罪ですよね。

フレディは「誰の曲を入れるか」や「印税の分配」で争うのがもう嫌だと言って、飛び出していった。
その彼を受け入れる条件が「あなたが嫌なことを解決しましょう」だったって、そういうことだろう。
フレディが自分たちと共にあることが、少しでも楽になるにはどうしたらいいのか。それを考えた結果だ。
これがフレディだけがヒットメーカーなら「お前の印税寄こせ」だけど、クイーンはそうじゃない。
この後自分たちの誰がヒットを飛ばしても、印税4分の1でいいですって言ったわけで。
ジョンの説教のような気がするんだよなあ。

ともあれブライアンが「なんとなく」三人だけで話し合いたかったこと、確かめ合いたかったことは、フレディとこれからどう向き合っていくか、だったんじゃないか。
私はそう思う。

三人はフレディに対して、共感という手段を使えない。
それ故フレディに何も言えなかった。
確かに私は、苦しんでいる人に対して「お前の気持ちは判る」以外の何が言えるのか、と書いた。
でも、同時に思うんだ。
本当に、それ以外ないのか。
苦しんでいる人に寄り添う手段は、本当に共感以外にないのか。

違うはずだ。
だって、そうだとしたら、人は同じ悩みや傷や背景を持つ者――すなわち『同類』としか寄り添えないことになってしまう。
そんなことは、絶対にない。

2回目で書いたとおり、「愛」は個の問題そのものを解決はしない。
でも「共感」だって解決してはくれない。
何度も「お前の気持ちは判る」と書いたけれども、本当のことを言えば誰にも他人の気持ちなんて判りっこない。
共感で重要なのは「相手の気持ちを理解できているか」ではない。本当に判っているかどうかは関係ない。
当人が「この相手は自分の気持ちを理解してくれている」と感じられるかどうかなんだ。
だから「そう受け止められるだけの背景」が、言った人間に必要だということ。
すべては、受け止める側の心の問題でしかない。
そして得られるのは「立ち上がるための力」であって、「立ち上がるための足」じゃない。
支えてはもらっても、立つのは自分の足でだ。
立つこと自体は、誰にしてもらうこともできない。代わってなんてもらえないんだ。

共感者がいたとて、変わることは自分の心の中のことだけ。
やっぱり個の問題は、自分一人で戦わなければならないんだ。
だからこそ、人は独りでは生きられない。
自分の心をどうにかできるのも、自分と向かい合うことも、自分にしかできない。全部自分でどうにかするしかない。
だからこそ傍らに誰かにいてほしい。立ち上がる力がほしい。支えてほしい。
みんな自分自身の問題と戦いながら、違う問題と戦う誰かの力になりたいと願う。
手を差し伸べたいし、手を差し伸べてほしい。

たとえその時、共感という手段を持ち得なくても。
たとえ慰め一つ、口にできなかったとしても。
悩み苦しむ人の力になる術は、その心を支える術は、あるはずなんだ。
できることがあるはずなんだ。

三人は、その模索の途上にあったはずなんだ。
その道程の一歩目を踏み出したところだったんだ。

そこで告げられたんですよ。
「エイズだ」って。


監督脚本出てこいよっっ!!

なんでここで死なす!
(八つ当たりです)


ええ、無茶言ってますよ。
史実ですよ、判ってますよ。
第1回冒頭で書きましたように、どうしようもないことですよ。
一番辛いのは本人ですよ。無念でしょうよ。そんなことは判っている。

だけど言いたい。


これはない!(号泣)



何度このことを考えても泣けてくる。
このストーリー書いた奴出てこいって、真剣に思いました。
なんでここなんだ。時間をくれよ!

全部、全部これからだったんだ。
分かり合うことも支え合うことも補い合うことも。
マイアミが言うように、三人には時間が必要だった。
でもそれは許すため、忘却のための時間じゃない。フレディのために何ができるのかを探り、証立て戦うための時間だ。
でも、そんな時間さえないと言われた。

あんまりだと思った。
三人はこれからどうしたらいい。

でも、そう。その答えは言うまでもない。
最初からフレディが選んでいる。
どんな慰めよりも、理解よりも、問答無用の力を持つものを。
もう最初から三人は掴んでいる。

ブライアン・メイのギター。
ロジャー・テイラーのドラム。
ジョン・ディーコンのベース。
そして鉄壁のコーラス。
それ以上のものなんて、存在してやしない。

それこそが、ライブエイドだ。

初めてライブエイドを見た時、問答無用だと思った。
台詞ももうない。それ以上登場人物は何も語らない。
けれどもあれ以上に問答無用の説得力を持つシーンを見たことがないと思った。
『Bohemian Rhapsody』の歌詞は、本当に衝撃だった。
あの歌詞から、最後の結論として『We Are The Champions』を持ってくる。そのための前二時間だったのだとさえ思ってしまう、その構成に対し心からの賛辞として「ちっくしょう!」と叫んだ。
あれを見てしまうと「こまけぇことはいいんだよ!」になる。
初見で泣き、二度目で泣き、三度目で思った。

これ、夢だ。

遺された者が、喪った者を思って見た、美しい夢だ。
そこには、無上の幸せがある。
喪われた者の目線で書きながらも、それをさらに外側から包んでいるのは遺された者の愛惜。
最後の最後で「お前たちを愛している」と言った人へ向けた、とても美しい答えだ。

ああ楽しかった、という声が聞こえた気がした。

でも、夢は終わる。
夢だから、終わる。

そしてその後には、現実が待っている。

「さよならだ」の言葉を遺して、フレディは逝ってしまう。
でも、あの映画の最後が『The Show Must Go On』であったように。
ショーは終わらない。

三人の人生も、終わらない。
映画でも、史実でも。

フレディの死が、三人にとって何を意味するのか。
それは「親友の死」だけじゃない。「盟友の死」だけでもない。
いわば「世界の終わり」だ。

これまで生きてきた世界は、本日をもって終了しました。
昨日と同じ明日はもうやってきません。
続いていくと思っていた、これからも生きたかった未来は、もうありません。
その上で、違う未来をどう生きるかを、自分で選んでください。
フレディがいなくなるということ、四人でのクイーンが終わりを迎える、ということは、そう宣告されたということだ。

そして史実の三人は、それぞれ選んだんだよな、と思った。
自分の未来を。自分の人生を。

ここからは史実の話ですが。
ブライアンとロジャーが選んだ道と、ジョンが選んだ道は異なる。
どちらへの賛意も批難も、沢山見ました。ぶっちゃけ罵詈雑言も見ました。
それ見て改めて思ったんです。

やっぱり自分の人生は、自分だけのものだ、と。

自分の痛みや苦しみ――喪失感と戦い、どうにかできるのは自分だけなんだ。
そのために選ぶことを誰も代わってくれないし、誰も責任も取ってくれない。
他人と共感し、慰め合うことで力を得ても、生きること、選ぶことからは誰も逃れられない。
自分で決めなければならない。自分でどうにかするしかないんだ。
それに対して外野はあーだこーだと言うわけですが、それは本当にどうでもいいことなんだ。
くだらないことなんだ。

遺された者はどうあっても、その後を生きていかなければならない。
人生はどこまでも容赦なく、決断を迫りながら続いていくんだ。

そのことを痛感させられたこの映画は、私の中では「喪われる物語」である以上に「遺される物語」だ。
遺された者たちが、喪われた者を思って綴った美しい夢物語だ。
沢山の人が喪われた者の姿に思いを寄せた。彼のことを思い返し、新たに多くの人の心を惹きつけた。
けれども私は、遺された者のことばかり考える。
この映画の背面にある痛ましさ、三人が直面したあまりにも大きな喪失について考えてしまう。
その上で、思う。

三人とも、見事だ、と。
かっこいい、と、心から思うよ。

ただ一つ願うことがあるとすれば、このブライとロジャーの選択が生み出した精華が、ジョンにとっても善きものであればいいなと。
この物語を、ジョンが肯定してくれていればいいなと。ただそれだけを願うばかりだ。
(マゼロと息子の動きを見ている限り、否定してはいないのだろうと思いたい。実のところ私が一番好きなのは、作中でもご本尊でもぶっちぎりでジョンなんですよ……)

というわけです、はい。
自分でも、ここまで考えてがっくりとうなだれましたよ。

ああ、そうですよね。
私がこの映画で、こういう見方をしてしまったら、はまらんはずがないんですよね。
どっかで聞いたことありますものね。


似たような話を書いたのはどこのどいつだ!と。


『それでも朝日は昇る』は、「喪われる者」のアイラシェールと「遺される者」のカイルワーンの物語です。
『ボヘミアン・ラプソディ』をこういう見方をしてしまったら、まんま同じ構造だったのよ。
それに気づいた瞬間、さすがにがっくりしましたね。
結局のところ私は、自分の好きなようにフィルターかけて歪めて見てるだけじゃないのかい? と自分でも思いましたよ。
でも一つの私見として、こういう解釈もありなんじゃない? と思っていただければなと。
(ついでに言うと、もしかして己の書く小説って、常にこの構造だったりするんじゃ……と一瞬不安に駆られたんですが、表に出してない他作を読み返したらそうでもなくてほっとした)

それにしても、今回時間とスペースを割いてあれこれ書いてきたんですが。
一言で言ってしまうと、ロスの話なんだよな。
そしてそれは、全然特別なことじゃない。誰だって、直面することだ。

だって喪失から逃れられる人生なんて、ない。

人と人の別れは色々あるように見えて、究極で言えばたった一つです。
自分が死ぬか、相手が死ぬか。
自分が遺していくか、相手に遺されるか。
ただそれだけです。
そして誰かに遺されることもない人生も、誰かを遺していくこともない人生もあり得ない。
この世のすべての人が、必ず大切な人を亡くす。大切な人に、今生に取り残されていく。
それは誰しもが、誰しもが通らなければならない道だ。

『それでも朝日は昇る』という物語は、表テーマは無論、アイラシェールの「運命」でした。
でも裏テーマは、遺された全員がそれぞれの「喪失」に決着をつけていくこと、でした。
カイルワーンも、カティスもマリーシアも、多くの登場人物たちが共感の力に救われながら決着をつけた。
(今振り返ってみて凄いなと思うのは、レインが「俺程度の甘ちゃんでお前の気持ちが判るはずがない」でオフェリアを救ってしまったこと。「お前の気持ちが判るはずがない」という逆説で、相手に共感以上の肯定をもたらしたんだから……それが叶う誠実さって、どんだけだと)
そして思った。
死ぬほど反省した。


たった一人、まったく決着ついていない奴がいる。
喪失から、まったく立ち直れていない奴がいる。


なんでそいつの決着がついていないかと言えば。
お前が何年も、執筆を放り出しているからだろうが。

本当にすまないブレイリー、私が悪い。全面的に悪い。
本当に悪いことしてるって、心底思ったんですよ今回ばかりは。
私が書かない限りは、こいつは立ち直れないままなんだ。
それはさすがに、やっぱり、あんまりだった。

今回この感想を延々書いていたのは、最初にも書きましたがリハビリです。
あまりにも長いこと、この環境で文章を書いていないので(パソコン買い換えたんですが、文章書くためのセッティングやら何やらおろそかになってた)まずは書くことに慣れないと何も始まらないと思った。
実際やってみて、やっぱり諸々鈍ってました。打鍵もそうだし、語彙力も文章構成能力も錆び付いてる。
よもやこの分量を書くのに、これだけの日数かかるとは思ってもみなかった。
それでも、久しぶりに自分で読み返したいと思える文章を書けたのは、収穫でした。
これくらい書けるなら、この環境でもいけると自信がついた。
(書き始めた時は、目がどうにもならなくて……どうしようかと思った。眼鏡かけないと見えないのに、何度調整しても頭痛がするのよ。今一番ほしいものは、頭痛がしない眼鏡だ)

というわけで、死ぬほど反省したので、近々更新かかります。
真面目に書き始めてます。ちょっと構成に悩んでいる箇所もあるんですが、とりあえずゴールデンウィーク明けくらいを目処に。
もしこれを最後まで読んでくださっている方がいらしたら。
本当にありがとうございます、近々必ずもう一度お目にかかります。
posted by Sae Shibazaki at 22:57| Comment(0) | 映画感想
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